父・舜太郎について

肥田泰

1917、1,1 広島にて誕生
父親は銀行勤務、転勤で神戸、大阪、横浜、東京に移住、麻布高校を卒業、医師志望でしたが父親が医師になることに反対し、早稲田大学理工学部建築学科に入学。医師になることをあきらめられず、2年後日本大学医学部へ編入、学生時代は山登りに熱中。
日中戦争がはじまり、繰り上げ卒業させられ、陸軍軍医として徴収さる。各地の部隊に配属後、1944年広島陸軍病院へ配属となる。
 8月5日、担当していた心臓病の子供の具合が悪いと連絡があり、夕方自転車で戸坂村の患家へ出かけ、症状が改善しないので、そのまま留まり、翌朝落ち着いたのを確認し、帰ろうとしたとき閃光を受け、爆風にとばされました。患児・両親の無事を確認し、市内へ戻ろうとしました。山の方角へ避難する被爆者の群れにはばまれ、市内に入いれず戸坂へ戻り、小学校にテントをはり、救護所として、被爆者の救護を開始しました。

  直接被爆しなかった入市者にも同様の症状

 救護所に来た人々は翌日から数日後の間に、紫斑がでて、口、鼻、目、耳、肛門から出血し、高熱をだして亡くなっていった。医者としてなにもすることが出来なかった。
その後、原爆投下後家族や親類、知人を探しに市内に入った人から、同様の症状がでて、亡くなっていく状態に、なぜこうなるのか当時は全く理解ができなかった。
 その後新型爆弾が原子爆弾だったことが判明、しかし治療法はわからず、自分はたまたま九死に一生を得たので、被爆者のために、核兵器をなくすために生涯をささげる決意を固めた。

  山口県柳井市の旧陸軍病院で診療に従事

 広島市内には診療の拠点がなく、山口県柳井市の旧陸軍病院で診療を開始。GHQから「国立病院・療養所に労働組合を作れ」と指令がでて、労働組合が作られ、役員となります。更に医療関連の労働組合の全国組織をつくることになり、東京に住んだことのある父が中央執行委員として選出され、東京に移住しました。朝鮮戦争の直前にGHQから「共産党員、およびその支持者は公職から追放」の指令で、いわゆる「レッドパージ」がおこなわれ、父も国立国府台病院の職を奪われました。レッドパージされた医師の仲間で、「病気になっても医療機関に行けない人たちのための病院・診療所を作ろう」との動きが起こり、父も参加し、民医連の診療所が全国各地に作られます。父は西荻窪の診療所に勤務、その後埼玉県行田市の診療所に勤務します。東京、埼玉、関東圏にも広島・長崎で被爆した人たちが生活したおり、その人たちの診療や相談にのっていました。

   被団協の結成、中央相談所の所長に

 差別や貧困に苦しむ被爆者が連携、連帯して政府と交渉したりする組織を作る動きとなり、父も参加。被団協が結成され、そのなかに「中央相談所」が作られ、所長になり、全国の被爆者の相談に応じてきました。ふつうの診療以外に相談活動を続け、被爆者診療数は6000人以上、相談者数はその数倍におよびます。

   被爆の実相、核兵器の廃絶を国連総会や世界各地で訴え

 埼玉県内はもととり、全国各地で被爆体験を語り、核兵器の廃絶を訴えてきました。
被爆の実相は世界的にはほとんど知られていない状況で、国連総会で演説、パネル展示を行い、世界各地の平和組織の招きで、34か国で講演をしてきました。ドイツが脱原発に舵をきった要因に福島原発の事故と父の講演活動があったと思います。


    低線量被爆、内部被爆について

 原爆ぶらぶら病をはじめ説明のつかない被爆者の症状について、カナダのベトカウ医師が、低線量の放射線照射で細胞膜が破壊されることを証明。これまで無視されてきた、低線量被爆、内部被爆で人体に影響が出ることがわかってきました。残留放射線や、放射能をおびた空気、水、食べ物の体内取り込みで人体に影響が出ることがわかってきました。どうしたらその影響からのがれられるにかは、解明されていません。わかっているのは、核兵器を使わないこと、原発からの離脱です。


核の平和利用はありうるのか
    核と人類は共存できるのか

 私も含め多くの国民は「核の平和利用」という美名に騙されてきました。核のゴミ処理問題は解決されず、チェリノブイリ、福島は後遺症に苦しんでいます。いまだに人類は核を制御する理論も技術も持ち合わせていないのが現状です。この状況で核に依存し、頼るのは危険すぎるとおもいます。

肥田舜太郎医師
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